株式会社エコールソフトウェア
プロデューサー兼代表取締役
Manabe Yoshiyuki
真鍋 賢行
11月29日生まれ
へびつかい座 O型
愛媛県松山市出身
私立愛光学園卒業後、大阪大学工学部原子力工学科、同大学院を在学中に現在のエコールを創業、大学院を中退後、株式会社エコールソフトウェアを設立。
CADシステム開発を経て、1995年、家庭用ゲームに参入
趣味はゲームとピアノ、パソコンのメンテ、海外旅行
現在、香港在住
エコールを作った経緯を教えてください。

私が大学3年生の頃ですが、縁あってある家庭で家庭教師をしているときに、その生徒さんの同級生が家庭教師を探しているということで、私の友人を紹介しました。それがきっかけで、今度は大学の友人たちから、家庭教師の仕事を探してくれないかと依頼が入り始め、それならば、生徒さん集めと先生集めを同時に本格的に始めてみようと考えたのが「阪大エコール」という会です。短い期間に生徒さんも増え、ふと気がつくと数十人の講師を派遣する会に成長していました。ただ、単に講師を紹介するだけではなく、月に1回の受験指導は私が訪問していたので、しばらくたつと目が回るような忙しさだったと記憶しています。

大学4年生になると、夏休みの頃は2ヶ月くらい学校に缶詰めで大学院の試験勉強をするのですが、8月のお盆前の12日、いつも勉強中に飛び込んできたのが、日航ジャンボ機の墜落のニュースでした。伊丹空港行きであったこともあり、比較的身近な人が何人も搭乗してお亡くなりになり、人生の儚さ、一瞬先はなにが起こるかわからない無常さ、そんな中でいま生きている時間を大切に精一杯生きなければならないと感じました。

幸い大学院には合格することができ、大学院1年生の夏休みに2ヶ月学校をお休みしてヨーロッパに一人旅にでかけました。その頃はやっていた、予定を決めずに放浪する、バックパッカーの旅行です。南イタリアとスペイン、ギリシャを旅する中で、ヨーロッパの田舎での物質的には豊かではないが、気持ちが限りなく自由な生き方を体験しました。改めて時間を大切にする大切さを理解し、日本に帰国、そのまま大学院を中退し、かねてから運営していた阪大エコールを母体に自分自身でのビジネスを本格的にスタートすることになりました。私が25歳の秋でした。

仕事を始めて間もなく、CADを作る仕事に出会い、これまで個人事業だった組織を法人化にすることにしました。そうやってスタートしたのがエコールソフトウェアです。名前の原点はそう、阪大エコールなのです。

家庭教師派遣からコンピュータへとどうやって移行を

大学2年生の終わりの頃、阪急石橋駅の近くにあったダイナウェアという会社にプログラマーのアルバイトに行きました。ダイナウェアは、当時まだ日本に存在していなかったウインドゥシステムを日本で最初にパソコンにのせてオフィス関連のアプリを発売した、大変技術力のある会社でした。そこには、キラ星のように凄腕の技術者がいて、マイクロソフトより何年も前にダイナウィンドゥをつくった竹松昇さん、ダイナパースを作った木原範昭さんをはじめ、これまで見たこともなかったような技術的な刺激をうけました。ダイナウェアでの経験は、これからコンピュータに関わるゲーム制作技術の基礎の部分を習得させてくれたと思います。

4年生の秋はひたすら忙しかったですね、9時から17時までは大学の研究室、18時までの一時間は草野球、19時から22時までは阪大エコールの仕事で家庭訪問、23時から3時まではダイナウェアでプログラムの仕事。4時に寝て8時に起きる、その頃に徹夜慣れしたのかなと思います。

CADを作っていた会社がどうしてゲーム会社に

高校時代にさかのぼりますが、当時タイトーのスペースインベーダーが大人気の時代、毎日、学校が終わるとすぐゲームセンターに直行して長い時間を過ごしていました。テレビゲームの黎明期、まだファミコンが登場する前ですが、毎月のように新しい作品がでて大流行したり寂れていったりする…それをリアルタイムで体験しながらアーケードゲームの核心みたいなものに触れることができた高校時代でした。

その頃の記憶があり、できることならいつか自分でゲームを作りたいと考えていました。しかし、自分でソフトウェア会社を経営し、CADの世界である程度の経験を積んだとはいえ、新しいゲーム制作の世界に向かうことを怖がっていた気持ちがあり、毎日が葛藤でした。

ある早朝、事件は起きました。阪神淡路大震災が発生し、自宅で被災しました。地震の30分後に外に出てみると、裏にあった新幹線の高架が落下していました。そこら中に煙がたちのぼり、でもあたりは不思議な静寂、音のない世界でした。本当の大災害のあとには突き抜けた静寂がくる、これまで積み上げたものが一気に無くなる無常の世界、それを目のあたりして、そして数日かけてその気持から立ち直っていく過程で、やはり心の中にずっと引っ掛かっていたゲーム制作を始めたいと強く望むようになりました。

そしてデスクリムゾンが生まれたわけですね

ゲームを作るにあたって考えたことは、頭の中でこねくり回して作品をつくるのではなく、自分が実際にみた原体験、これをゲームに入れ込まなければならないと感じました、そんなときに思い出したのが、大学院のときに一人でまわったヨーロッパでした。その旅行からすでに8年が経過していましたが、新しく作品を作るにあたってもう一度そのヨーロッパを回ってみたい、三大宗教の原点であるエルサレムにも行ってみたい、こんな風に思い、翌週にはパリ行きの飛行機に乗っていました。

あとは、皆さんのほうがよく知っている状況ですね、デスクリムゾンの完成とリリース、挫折と再生、そうやって、気がつけば、予想とは正反対の方向ですが、作品を作るという目標、ゲーム業界で生き延びるという目標は達成されていました。

一番思い入れの深い作品について教えてください。

皆さんデスクリムゾンだと想像されるかな…。確かにデスクリムゾンはその後に大きくエコールと私の運命を変えました。良い悪いは別にして、30年たっていまだにゲーム制作に関わっていられるのはデスクリムゾンがあればだと思います。しかし、ゲーム制作者としては、ムサピィのチョコマーカーに一番思い入れが深いですね。あれは私の一番好きな数学の知識がたくさん詰め込まれていますから…

どのような部分に思い入れを

チョコマーカーは私の技術者としての集大成、あえて制作者ではなく技術者といいいますが、その技術者としての集大成のアイディアがたくさん盛り込まれています。実際に物として存在できない動き、ゲーム機の上だけで成立する動きのパズルを考えたいという発想でスタートし、何回もプロトタイプを作り直し、その集大成として出来上がったのがチョコマーカーです。ただ、初見の難易度は高めですね。

最初が難しすぎでプレイする人を選んでしまう、一般受けしない敷居の高いゲームになってしまったことは残念です。いつか、とっつきやすい、敷居の低いルールのチョコマーカーを作りたいとは思っていますが、なかなか良いアイディアが思いつきません。

最近は格闘ゲームに力をいれていますがその経緯は

2005年からスタートした、タイプムーン、フランスパンと協力したメルティブラッドの一連のプロジェクトが格闘ゲームとの接点です。タイプムーンさんが作る原作の力、
それをゲームに落とし込む時点でのフランスパンがもつ原作へのリスペクトと強い作品愛、そのようなものが根底にあってメルティブラッドはたくさんのプレイヤーに愛された作品でした。私がメルティブラッドという作品に出会え、共にプロジェクトを進められたのは幸せだったと思います。

メルティブラッドが始まりとなり、いくつもの格闘ゲームの開発に深く関わり、またハイドラGPというeスポーツの大会も運営したりと世界が広がっていきました。そして格闘ゲームと言うジャンルに人生をかける若者たちがいかにたくさんいるかということも知ることができました。私が身近で見ていたプレイヤーたちの格闘ゲームへの熱気、意気込み、そのようなものが、最近盛り上がっているeスポーツを支えているのだ感じます。

現在はどのような活動をしていますか

会社を作って30年、ゲームを作って25年、いつまでも今までのペースでゲームを作っていけないのは自分自身が一番感じています。そんな中でも、作品を作る意欲だけは途切れないで継続しています。ただ、実際には電撃文庫ファイティングクライマックスで、やるべきことはすべてやりつくしたなと感じています。

ファイティングクライマックスがスタートしたのと同時期に、縁があってボーカル教室を始めることになりました。
ボーカル教室は、私にとってゲーム業界への恩返しという意味を持っています。仕事としてやるのはゲーム制作だけですし、それはライフワークであり、表現活動であり、生きがいであり、いくつ言葉を並べても語り尽くせないのが、私にとってのゲーム制作ですが、それとは少し離れた所で、コンテンツを作るというゲーム業界に貢献したいという思いを持っていました。歌を歌う、声を出す、人前でステージに立つ、それはすべてこの20年間、私が見てきた世界とリンクします。イベントで私も相当の回数、ステージに立ち、観客の皆さんとシンクロしながら1時間くらいのイベント時間を精一杯使って、自分の伝えたいこととを表現する、そんな経験をしてきました。

歌を歌うということは、特別な人ではなく、ごくごく普通に日常生活を送っている人が簡単に実現できる自己表現の機会だということを知ることができました。ボーカル教室は仕事ではありませんし、「儲からないボーカル教室」として運営しています。私がゲーム制作で知りえた不思議な世界、その片鱗でもボーカル教室を通じて皆さんに伝えることができれば本望だと考えています。

これからもゲーム制作は続けていきますが、これまで感謝しきれないくらいのお世話になったゲーム業界、コンテンツ制作業界に対して、私がゲーム制作以外の部分で貢献できることは何かと考えたとき、このボーカル教室は新たな私の表現の場として考えたいと思います。

クライマックスプロジェクトはどんな経緯で

電撃文庫ファイティングクライマックスのプロジェクト(以下、クライマックス)は、セガさんから話を頂いてスタートしたプロジェクトです。これまで、自社タイトルとフランスパンとのプロジェクトなど、独立系の仕事が多かったので、セガさんの仕事をするのは、1998年の「せがた三四郎 真剣遊戯」以来、15年ぶり。
また、セガさん側でクライマックスを担当するのが、「戦場のヴァルキュリア」を作った、野中竜太郎さんと寺田貴治さん。ヴァルは大好きな作品ですし、それを作った人と仕事できるとは、これは、燃えないわけにはいけません。人間長生きするものだと、少なくともゲーム業界に20年踏ん張ってきた甲斐があるものです。

思い起こせば、デスクリムゾンでスタートし、メルティブラッドでジャンプして、ここでヴァルのチームの方とクライマックスプロジェクトを進められる、なんと幸せなゲーム制作者人生だったでしょう。
あまり、途中の過程は詳しくはかけませんが、クライマックスは、ファミ通殿堂入りの評価を得られる良い作品に仕上がり、また、野中さん、寺田さんとも大変楽しく仕事をすることができました。あらためて、野中さん、寺田さん、ありがとうございました。一生感謝いたします。そんな感じで、一度はやってみたかったセガさんと、さらにはヴァルの方々とがっぷり四つに組んだプロジェクト、これでゲーム制作にも思い残すことはなくなりました。まだ、引退はしませんが。

ボーカルFUN教室はどのようなものですか

ゲーム制作者、エコール真鍋、その作品として教室をつくっています。ボーカル教室を運営するにあたって、自分なりにいくつかのルールを決めました。

◇エコールはゲーム制作会社なので収益はゲーム制作で得ること。
◇ボーカル教室の目的は「表現と社会貢献」とし、「儲からないボーカル教室」にすること。
◇規模の拡大を追わず、ゲームを作るように、スタジオや講師、レッスン内容について最高をめざすこと。

音楽教室はこれからの楽しみとしてじっくりと取り組む予定です。

◇「新しい才能を見つける場所、ひとりひとりの意欲を生きる力にかえるお手伝い」をめざす。
◇私がゲーム業界で実際に見て体験した、「トップクリエイターの凄み」「実力のある有名声優だけが纏うオーラ」「心を揺さぶるアニソンの歌い手」とのかかわり合い、その中から私が理解したノウハウを教室に生かすこと。

音楽教室はこれからの息の長いライフワークと考えています。

全国規模で展開する予定はないのですか

ボーカルFUN教室はゲーム制作と違い規模を拡大することは考えていません。もちろん一定のクオリティを維持するためには4~5校の教室を運営するのが効率的かつ必須ですが、全国的な規模に拡大することのメリットは乏しく、ひとつひとつの教室への思い入れも低下します。

いまは、新しく教室を開く際は、かつて建築CADソフトを開発していたときの気持ちに戻り、自分自身でレイアウトやスタジオの設計を行い、図面を書き、工事には立会い、夜中には教室のクオリティを上げるために追加工事を自分でしたりしています。最近は機械いじりの趣味に加えて、内装工事も趣味になってきました。

夜中に一人でスタジオの仕上げ工事をしていると、ゲーム制作とやってることは同じだなと感じることがあります。ゲーム作品は1作品つくるのに、およそ2年くらいの時間がかかります。ボーカル教室も、2年に一つくらいのペースで、一つ一つの教室に気配り、目配りしながら、丁寧に一つづつ仕上げていきたいと考えています。

どのような運営を行っていますか

スタジオ自体を作品と考えて最高レベルのクオリティにしたいと思っていますが、それに加えて、教えるインストラクターの方を大切に育てていきたいとも考えています。他の多くの教室がそうであるように、まず、多数採用して、とりあえずレッスンさせて、中で生徒数を競わせて淘汰を待つというような、ザルですくって機械的に処理するという作風は私には不向きです。その甲斐もあって、採用の面接基準は厳しいのですが、採用のあとは退職した講師がほとんどいません。大半の講師が6年近く生徒さんとの時間を過ごしています。

ゲーム制作と同じく、良い講師と生徒さんが出会い、そしてその人達が一緒に成長する、それに伴い教室も一緒に成長する、その姿が大切ですし、私にとっては、音楽教室は、ゲームと同じく「作品」と考えています。ゲーム制作でも私はたくさんのファンに支えられ、成長させてもらったと感じています。こんどは私がボーカル教室を通じて生徒さんになにかを伝えることができればと考えています。

この仕事で幸せを感じるのは、ゲーム制作はいつも売上を気にしなければならない、そこのマネージメントを失敗するとあっというまに会社が終わってしまう、場合によっては命すら奪われしまう。名前は具体的には挙げませんがゲーム制作の厳しさの中で命を落とされた私の知り合いや友人はたくさんいます。
そんなプレッシャーをいつも感じていましたが、いまやっているボーカルFUN教室は、「儲からないボーカル教室」ですから、そのようなプレッシャーはありません。生徒さんから頂いた月謝は、全て教室のクオリティアップ、そのために講師の方への待遇改善と振り分けることができます。このあたりも全くゲーム制作と同じですね、今後も「作品を作るように教室を作る」という考え方で教室を運営して行きます。

いまは海外にすんでいるとききましたが

ここ10年くらいはゲーム業界は大きな変革期でした。スマホゲームの隆盛があったりと。しかし、売り上げランキングを見ていると結局2000年頃に活躍していた会社が、また復活してスマホゲームのランキングの上位にいる、いつも見慣れた風景が展開されていると思います。経済は循環し流行も循環してまた元の位置に戻っていく、という真理をしみじみ感じます。

会社を作って30年以上、ゲーム業界に入って25年、今までのように会社に泊まり込み徹夜しながらひたすら作品を作る時代は過ぎましたが、数年前から生活の拠点を海外に移し、いまは、海外から日本を俯瞰しながら、やるべき道を進んでいる状況です。2年間シンガポール、その後2年間の東京生活を経て、現在は香港に住んでいます。以前は3000人くらいの人がこのマンションに住んでいましたが、最近は日本人が減ってきて500人くらいしかいないとのことです。

香港にはたくさんの人が狭い場所に重なり合って住み、日本の基準からしてもかなり高いと思われる物価、世界情勢に翻弄される政治状況にありながらも、たくましく生きている香港の人たち。その中に身を置くことで、また新しい制作意欲が湧いてくるのを感じます。

最後にこれからの展望を教えてください。

今までの25年で幸せなことに10タイトルを超える作品をリリースしてきました。しかし、まだやり残した感触というのがあるので、最後に1作品、代表作といえる作品を作りたいです。といっても、大掛かりなチームを編成するのではなく、気心のしれた少人数でじっくりと数年かけて作りこみたいと思います。最後の作品は音楽教室と同じく「儲からないゲーム」を作りたいです。ガンシューティングとパズル、この2つの要素がリンクする作品をぜひとも完成させたいと考えています。いつ完成するかわかりませんが、こっそりと根回しはしているので、もし完成するとすれば2022年頃かと思います。気長に期待していただければと思います。

MENU